草WCCF
WCCFというアーケードゲームを軸に、Jや欧州等のリアルサッカーの話題とか、全然関係ない話とかをするところ。初めての人は「はじめに」みといてね。
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自由すぎた天才
イギリス発4人組ロックバンド、ビートルズ。後の音楽の歴史を変えた彼らは当時の若者から絶大な人気を博した。
過去類を見ない音楽性やそれまでと比べ反社会的な歌詞、長髪など奇抜なファッション等がその一因と言われている。
そんな彼らがレコードデビューした1年後、弱冠17歳でプロデビューを果たしたサッカー選手がいた。
ビートルズ同様、端正な顔立ちと破天荒なライフスタイル、そして歴史上を見ても突出した才能を持ったその若者を、人々は「エル・ビートル」5人目のビートルズと呼んだ。
 第22回 ジョージ・ベスト

北アイルランドはベルファストという町に生まれたベストは勉学に秀で、学問優秀の上級学校に通うような少年だった。
加えて小柄で細身、当時誰しもがプロスポーツの世界で生きていくとは思わなかっただろう。ましてやよりフィジカルが要求されるイングランドフットボールの世界では。
しかしその夢は、彼の持って生まれた莫大な才能によって実現する。

15歳になったベストはプロテストを受けるが、リーズに落とされてしまう。やはり小柄な体格が仇となったらしい。
が、そのような懸念など微塵も持たないスカウトがいた。ベストを見たスカウトはすぐにクラブの監督に電報を送る。
「I think I have found you a genius」‐天才を発見した‐
そのクラブは数年前「ミュンヘンの悲劇」によって多くの主力を失い、国中の有能な若手を育て再び頂点を目指す野望を持ったマンチェスターユナイテッドだった。

1963年9月14日にトップデビュー、12月には初ゴールを決め、その後は完全にスタメンに定着。
9つ年上であり生え抜きのボビー・チャールトン、前年に移籍してきた6つ上のデニス・ローと共に前線を形成。
ボールを蹴ることに長けたチャールトン、ボールを決めることに長けたローに対し、ボールを運ぶことに長けたベスト。
長所の異なる二人の先輩に対しまったく物怖じせず、自由奔放に敵陣を切り裂いたベストは若くしてチームの中心となった。
更に翌年代表デビューを果たし、当時の北アイルランド代表最年少出場記録を更新した。
ちなみに、マンUの背番号7は特別な意味を持つエースナンバーとされるが、その元祖と言われるのがベストである。

ベスト最大のストロングポイントは、最高峰のドリブルテクニックにある。
ドリブラーとしてスピードも最高水準にあったベストだが、鋭利な切り返しやキックフェイントも持ったベストは、どんなに相手と接近していても、スペースがなくても仕掛けることが出来た。
あまりにも自在にボールをコントロールできるそれは、相手を抜き去るというより「相手を転ばせる」ことの出来る武器だった。
スピードに乗ったベストを止めようとスライディングを仕掛けてもかわされ、シュートやクロスを阻もうと体を投げ出すと、しかしそれはフェイントであり無様に倒れるのみ。
そうしてDFを翻弄し自由を得たベストは、易々と味方へクロスを通した。

また元来のポジションは右ウィングだったが、神出鬼没にポジションを変え攻撃時のあらゆる場面に顔を出した
自身の決定力も非常に高く、隙あらば大きく振りかぶって放つ高精度のミドルで度々ネットを揺らす。
相手に固められていても、得意のドリブルで強引にこじ開け、GKすら抜き去りゴールを決めることも珍しくなかった。
GKをあざ笑うループシュートや意表をついたヒールキックも多用、見るものを魅了し相手にとっては厄介この上なかったことだろう。
最高のレベルを極めるには、即興で創られる芸術が必要なんだ」とはベストの言い草。まさに彼は有言実行のファンタジスタだった。

ところで、入団テストを受けた際のベストは、従来の英国人選手と比べてプレースタイルが「ふらふら」していたという。
それを懸念に思うスタッフもいたようだが、ベストを初めて見たマンU監督マット・バスビーはこう言ったという。
「彼のふらふらとしたドリブルを、決して矯正してはならない」
かくして従来の型にはめられず伸び伸びと成長したベストは、最高のドリブラーとなる。育成の名手と言われたバスビーの手腕が伺える。

65-66シーズン、UEFAチャンピオンズカップ(現UCL)準々決勝、当時優勝最有力と言われたベンフィカに対し8-2という大番狂わせを演じる。
特にベストの2ゴール、とりわけドリブルで3人抜いてのゴールは世界中に衝撃を与え、この頃より「エル・ビートル」と呼ばれるようになる。
翌シーズンに自身初のリーグ優勝を果たし、その人気を徐々に世界に広めていった。

ベストが絶頂に達したのが67-68。リーグでは28ゴールをあげて得点王に
そしてチャンピオンズカップでは準決勝レアルマドリードを相手に1ゴール1アシストで4-3の勝利。
決勝では再びベンフィカを相手に、1-1の延長から勝ち越しゴールを決め、イングランド勢初優勝に大きく貢献。
盟友チャールトン、恩師バスビーの夢をかなえると共に、当時史上最年少でのバロンドールを獲得(2011年現在ロナウド)。まさに栄華を極めた。

しかしこれを期にベストは徐々にフットボーラーとしての輝きを失うこととなる。
圧倒的な才能故に得た巨万の富、ベストはこれを私生活での豪遊につぎ込んだ。
元々練習嫌いでそういった面も度々見られたベストだが、それまでは自身の才能のほうが勝っていた。
しかし大金を得てそれはピッチ内に悪影響を及ぼすほどになっていった。またそれまでのサッカー選手と違い、ベストがアイドルのような人気を得たこともマイナスに働いた。
二日酔いによる練習無断欠席、恋人との婚約破棄による訴訟、挙句試合の日にスタジアムに行かず、女性と食事をしている様子をメディアに撮られたりもした。
それらのストレス故か試合中審判への暴挙も増え、侮辱行為による出場停止や罰金も度々繰り返した。

1971年にはバスビーがチームを勇退し心の支えを失い、さまざまな面に疲れたベストは26歳の若さで現役引退を発表。
半年後に翻意し1年後にトップチームに復帰するも、かつての輝きには程遠く、アルコール依存症も発病。1974年1月1日を最後にマンUの選手としてピッチに立つことはなかった。
その後2部以下のクラブや南アフリカのクラブなど、以前の地位からかけ離れたクラブを移り歩く。
何度かの現役引退、復帰も繰り返しており、厳密にいつがキャリアの終焉なのか、不透明な面も多い
記録上、単純に計算すると38歳までプレーしたことになるが、終盤は若き日に使い果たした金を稼ぐためのものだったとも言われる。

北アイルランド代表としては1964年から1977年にかけて出場しており、31歳までは戦力として活躍したことは伺える。
しかし弱小国に生まれたベストは、代表では確固たる栄光をつかむことはなかった。
最もチャンスだったといわれるのは1978年アルゼンチンW杯。出場権をオランダと争う。
当時絶頂期にあったクライフと互角に渡り合いアウェイで2-2とするも、ホーム決戦を0-1で落とし涙を飲んだ
その後ベストが代表のユニフォームを着る事はなかったが、皮肉にも4年後のW杯、北アイルランドは本戦出場を果たした。
しかしそこに35歳のベストは居らず、37試合9ゴールという寂しい数字を残し、ベストは「W杯に出場できなかった名手」に名を連ねてしまった。


天才肌」を地で行ったベストは、典型的な早熟型のキャリアを終えた。引退後はアルコール依存症と闘うも、飲酒運転や警察とのトラブルを繰り返す。
1978年に結婚し子供を授かるも数年で離婚し(その後再婚)、アルコール依存症治療のため肝臓移植手術を受けた後飲酒運転で捕まるなど、ゴシップ紙を賑わせる堕落した人生を送った。

しかし現役時代に多くのものを魅了した彼を、多くの人はヒーローと認め、愛していた。
時代外れの長髪と奇抜なファッション、歯に衣着せない小粋な発言は、それまで労働階級の男性の娯楽でしかなかったフットボールに、女性や高階級のファンを取り込んだ。
そんな初心者の人々に、誰が見ても分かるスーパープレーで答えた彼はスポーツ界初の「国民的アイドル」となり、「世界最初のフットボールスター」になった。
同僚であり紳士の鑑だったチャールトンは再三の注意を聞き流されたが、二人が不仲だったことはなく、何度も注意されたバスビーのことをベストは父親のように慕っていた。
もちろんライバルたちの評価も高く、神様ペレをして「私より巧い。史上最高のプレーヤー」と言わしめた。
多くの人から愛されたベスト。それを彼は最悪の形で証明してしまう。

2005年、腎臓の感染症にかかり危篤、2ヶ月間の闘病生活も虚しく、ジョージ・ベストは帰らぬ人となった。59歳の若さだった。
故郷ベルファストで行われた葬儀には10万人以上の人が参列し、その模様は全世界に生中継され約2300万人が視聴したといわれる。
参列者にはアレックス・ファーガソンらも名を連ね、英国政府や首相までもが生花を送った。
翌日、オールドトラフォードの壁はベストへのメッセージ、献花、ユニフォームで真っ赤になり、試合前には各地で黙とう、追悼の拍手が捧げられた。
その後、故郷にある空港はジョージ・ベスト・ベルファスト・シティ空港と改称され、1周忌にはベストの肖像画が描かれた紙幣が発行される。
2008年にはオールドトラフォードの外に、かつて欧州を制した3人を称えたブロンズ像が建てられた。ベストはここで自身が栄光をつかんだクラブの行く末を見守ることになった。


練習嫌いで現役中にアルコール依存症を発症するなどという面から、ベストは自身の才能に努力を殆ど上積みしなかったことが予想できる。
逆を言えば、にもかかわらずバロンドールを手にしたことから、いかに彼の才能が規格外だったかも想像に難くない。
もし彼が、人並みにでも努力する生真面目な性格であれば、マンUや北アイルランドでの記録はもっと華やかになっていただろうか。
それとも彼の言う「最高レベルの即興の芸術」が失われ、型にハマった凡庸な選手になっただろうか。
いずれにしても時間は戻らない。残された「サッカー史に残る名手だった」という揺ぎ無い事実を残し、時は進み続ける。
我々は強豪国からか、辺境の弱小国から現れるか分からない、次代の「天才」の出現を待つ。サッカーの可能性、美しさを体現する、唯一無二の存在を。

ベストのファン達が、彼の凄さを伝えるために度々用いたジョークがある。

「Maradona good, Pele better, George BEST」

W杯予選でクライフを相手に股抜きを決めたベストは、拳を空に突き上げ「ベストは、俺だ!」と叫んだという。
ペレはこの発言を認めた。果たして「天才」は「神」をも凌駕するベストな選手なのか、確かめてみてはどうだろうか。
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