草WCCF
WCCFというアーケードゲームを軸に、Jや欧州等のリアルサッカーの話題とか、全然関係ない話とかをするところ。初めての人は「はじめに」みといてね。
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蒼き壁
ジネディーヌ・ジダンは言った。「サッカーは美しさを表現出来るスポーツだ」と。
魔法のようなフェイント、ため息の出るようなスルーパス、見事な放物線を描くフリーキック。
その数々の妙技は多くの人々を虜にし、フットボールというスポーツを世界的なものとしている。
が、元ローマのブラジル人MFエメルソンはこう語る。
「ロナウヂーニョは素晴らしい選手だけど、彼が11人いても試合には勝てないよ」
華やかな活躍をする選手の影には、シンプルかつ的確に自分の仕事を全うする選手がいるのが常だ。
無敵を誇った98~00年フランス代表には、ジダンに妙技を披露させるための優秀な黒子が数多く存在した。
彼もその一人である。
第15回 ローラン・ブラン


恵まれた体格を対人プレーや空中戦に活かしつつ、経験を重ねるにつれて危機察知能力にも磨きがかかり、的確なポジショニング迅速なカバーリングを最大の武器とする。
足下の技術も持ち合わせ、優れた知性とリーダーシップでラインを統率し、試合の流れを見抜く観察眼や洞察力にも長けた、守備の人としておおよそ欠けるもののない選手だった。
ミスも少なく、試合中では殆ど目立たない彼だが、ある一つの才能によって度々脚光も浴びた。
磨き抜かれた危機の芽を感じ取る才能はゴール嗅覚にも直結し、オーバーラップやセットプレーから数多くのゴールもあげている。
フランス代表としてだけで16得点。センターバックというポジションから考えると十分すぎる数である。
穏和で理知的な性格と優れた人間性からチームメイト等からも多くの信頼や尊敬を集め「ロロ」「大統領」という愛称で呼ばれた。

サッカー選手の多くは、若い時分に現在とは別のポジションを経験していることが多い。
ブランもこの例に漏れず83年、フランス2部リーグ、モンペリエでキャリアをスタートさせたときのポジションは攻撃的MFだった。
しかし当時モンペリエを指揮していたエメ・ジャケ監督はブランの素質を見抜き、センターバックへとコンバート。
この二人の出会いがブランのみならずフランスサッカー界の未来さえも変えてしまうとは、当人達も予測し得なかったであろう。

徐々にポジションに慣れ才能を開花させていったブランは86-87シーズンのリーグ2部優勝に貢献。その能力を評価され87年に代表デビューを飾る。
クラブでも89-90シーズンにフランスカップ制覇で初タイトル、その能力を買われ91-92シーズンにはイタリアのナポリへ移籍。
DFとして31試合に出場し6ゴールを挙げるなど結果を残すも、環境の変化になじめず1年で帰国。その後数シーズン、毎年のように国内クラブを渡り歩くこととなった。

所属クラブはコロコロと変わったものの、ブランは行く先々でスタメンに定着しチームに貢献した。そしてそれは所属の変わることのない代表でもまた同じだった。
しかし当時のフランス代表は「将軍」ミシェル・プラティニ時代の終焉期であった。
ブランが代表デビューを飾った2ヶ月後、プラティニが現役を引退。フランスは新たなる武器を見いだせず迷走期に突入、88年EURO予選、90年W杯予選を通過出来ずに終わる。
続くEURO92は予選こそ突破したものの、一次リーグでスウェーデン、デンマーク、イングランドという死のグループに組み込まれ、イングランドと共に敗退するという大波乱を演じる。
悪夢から目覚めようと94年W杯予選ではエリック・カントナとジャン・ピエール・パパンという、当時世界最高の2トップと称される程充実したチームで挑んだ。
フランスは快調に勝ち星を重ね、残り2試合で勝ち点1を取れば予選通過。
しかし、アウェーで4-0と圧勝した格下イスラエルをホームに迎えた試合、終了7分前に同点ゴールを、後半ロスタイムに逆転ゴールを浴びまさかの敗戦。
負の連鎖を断ち切ることが出来ないフランスは、予選最終戦ではブルガリアを相手にまたしても後半ロスタイムに逆転を喫し、衝撃的な予選敗退。
フランスサッカー史に刻まれてしまった「パリの悲劇」。これを機に多くのベテランは代表を去った。ブランもまた代表引退も考えたという

W杯予選敗退を受けてフランス代表は監督を更迭。新たに指揮官に指名されたのはエメ・ジャケ。
ジャケはレ・ブルーを徹底的に改革。看板とも言えるパパン、カントナらを代表から外し、ジダンやアンリ等それまで代表とは縁の無かった移民の選手を起用。代表に新たな血を積極的に取り入れた
その方針に反し、代表引退を考えていたブランに対しては思いとどまらせるよう説得。ブランは恩師の呼びかけに応じ、以降も代表のユニフォームに袖を通し続けた。
ブランはデシャンと共に、改革に伴い若返るチームの精神的支柱として、ピッチ内外で多大な貢献をする事になる。

「パリの悲劇」は、幸か不幸かブランに代えがたい経験値をもたらした。これ以降、ブランのキャリアは上昇気流に乗る。
94年、オセールへ移籍したブランは自身初のリーグ優勝を経験。更にカップ戦も制し2冠を達成。
96年にはスペインのバルセロナへ移籍。1シーズンだけの在籍になったが欧州カップウィナーズカップ制覇に貢献。
翌シーズンは母国の強豪マルセイユへ移り、シーズン11ゴールを挙げる活躍を見せた。
フランス代表ではジャケ政権初の大舞台となったEURO96に主力として出場。
準決勝で惜しくもPKで破れるも、生まれ変わったチームは経験を積み、2年後へ向けて弾みを付けた。

この頃より代表の試合開始前、ブランがGKバルテズのスキンヘッドにキスをするという「儀式」が行われるようになった。
そしてフランスは偶然か必然か、この儀式を期に完全王者への階段を駆け上がっていくこととなる。

98年フランスワールドカップ

フランスにはホスト国として一次リーグ突破という暗黙の義務が課せられていた。
しかし一次リーグでジダンがレッドカードをもらうというアクシデントが発生。
大黒柱の出場停止に不安の声も上がったが、それでもフランス代表は全く危なげなく勝利を重ね、全勝で一次リーグを突破。
その影にあったのはプラティニの亡霊を払拭した、個に依存しすぎることのない高いチーム力だった。

決勝トーナメント初戦ではパラグアイと対戦。
ジダンを欠きながら終始攻め続けるフランス。しかしパラグアイゴールに次々放たれたシュートは、ことごとくチラベルトに阻まれた。
後にフランス代表MFプティは「煉瓦の壁にシュートしているようだった」と語る程、この日のチラベルトは世界最高GKの一人という評価に相応しい活躍だった。
試合は90分をスコアレスドローで終え、ゴールデンゴール方式の延長戦へ。
パラグアイはもはやチラベルトと心中するつもりらしく、ゴール前を徹底的に固めてPK戦まで耐え忍ぶかのような守備を見せた。
フランスも必死でこじ開けるが、やはり最後の砦を崩せない。シュートが阻まれるたび、ベンチのジダンは何度も顔を覆った。
もしこのままPK戦に突入したらどうなるか?ブランは悩まなかった。
この日、ブランと共にパラグアイのカウンターに対処していたデサイーは制止した。
しかしブランは聞く耳を持たず前線へと駆け上がった。ここはリスクを冒してでも攻めるというのがブランの判断だった。
ピレスがクロスを入れた。トレゼゲが落としたボールに走り込んだブランは右足を振り抜き、この試合初めてチラベルトを破った。
W杯史上初のゴールデンゴールを決めたのは、32歳のベテランディフェンダーだった。
しかし、当の本人はこれがゴールデンゴールだと知らなかったという逸話もある。

準々決勝、ジダンが復帰して臨むイタリア戦。
この試合も試合内容で圧倒したフランスだがカテナチオを破ることが出来ず、今度はPK戦へともつれる事となる。
ブランは5人目のキッカーとして、ど真ん中へ蹴り込む肝の据わったシュートで成功させ、フランスの勝利に大きく貢献した。

大会にセンセーショナルを巻き起こした初出場クロアチアとの準決勝。
スーケルにまさかの先制点を許すも徐々に主導権を握り、テュラムの代表初ゴールで同点に、更にテュラムが続けて勝ち越しゴールを奪った。
しかしその後、クロアチアFK時のポジション争いでビリッチの罠にはまり、ブランはまさかのレッドカードで退場
その後のクロアチアの反撃を耐え凌ぎフランスは勝利を収めたが、ブランの選手としてのW杯は唐突に幕を閉じた
サッカー選手として最も重要で最も栄誉ある試合、ブランはピッチに立つ権利を失った。

しかし、例え試合に出られなくとも、チームのために出来ることがあることをブランは知っていた
決勝前のロッカールーム、ブランは出場停止のショックを見せることなくチームのムードメイクに奔走。
代役のルブフに何かとアドバイスを送り、ジダンに「今日は君が決める番だ」と鼓舞した。
こうして、チーム力を武器としたフランスは、より強い結束を発揮。
彼らの合い言葉は決まった。

「ロロにワールドカップを!」

相手は世界最強のブラシル。
ブランは試合開始前に少しだけベンチを飛び出しバルテズの頭にキスをし、ベンチで試合開始の笛を聞いた。
試合はブラジル有利という下馬評を大きく覆す展開となった。
CKからジダンが2度、強烈なヘッドでゴールネットを揺らした。まるでブランの言葉を現実とするように。
ブランの代役で出場したルブフも、ほぼ完璧にロナウドを封じ込めた。
後半ロスタイムにプティが優勝を決定づける追加点。歓喜に沸く中、試合終了の笛が鳴る。

英雄、プラティニを要しても成し得なかったことを彼らはやってのけた。W杯初優勝
リザラス、デサイー、ブラン、テュラムで構成された守備陣は、2失点という大会最少失点記録を残した。
コンタクトを武器にチャージを仕掛ける2人に囲まれたブランは、自身最大の武器を存分に発揮したと言える。
ブランは、キャプテンであるデシャンにカップ渡され、チームで2番目にカップを掲げた。
試合に出ることを許されなかった彼は、下にジャージの長ズボンを穿いたままだった。

W杯の翌年、ブランは所属クラブをインテルへ移す。
インテルの会長をして「最大の収穫。これでスクデット獲得への準備が整った」と言わしめ、チームは優勝こそならなかったものの、ブラン自身は前シーズンに引退したベルゴミの穴を完全に埋める活躍を見せた。

代表ではEURO2000に出場。
「W杯優勝チームはEUROで結果を残せない」というジンクスから堅くなっていたフランス代表だったが、ブランは初戦で自ら先制点を挙げチームを勢いづけた。
決勝ではイタリアを相手に先制されるも、ロスタイムにヴィルトールが同点ゴールを、延長戦ではトレゼゲがゴールデンゴールを挙げ(通称ロッテルダムの奇跡)、史上初のW杯EURO連覇を成し遂げた。
悲惨だった代表デビューの時期を乗り越え、ブランは最高のタイトルを最後に代表を引退した。
結局、ブランがバルテズとの「儀式」を行った試合では、フランス代表は4年近い年月の間ただの一度も負けることはなかった。

代表引退後、36歳のブランはイングランドの名門マンチェスターユナイテッドへ請われて移籍。
一際身体のぶつかり合いの激しいリーグ、一回り年齢の離れた相手に熟練の守備技術で立ち向かい、主力としてチームに貢献。
02-03シーズンにマンUはプレミア制覇を達成。自身初となった国外リーグ優勝を経て、この年ブランは現役を退いた


W杯初優勝を遂げたフランス代表。
ブラン程自分の才能を全て出し切った選手は居ないのかもしれない。
本職であるDFとして大会最少失点記録を樹立したし、決勝トーナメントではチームを救うゴールを挙げた。
そして例えピッチに立つことが出来ずとも、代表に選ばれた22人として出来る限りのことを尽くした。

この大会で新たなる将軍として世界最高の名手の称号を得たのはジダンだった。
だがこのフランス代表の武器は、後にプティが「まるでクラブチームのようだ」と語ったように、組織や連携に裏付けられたチーム力。
ジダンが優れたプレーヤーであることに疑いの余地はない。アンリ、アネルカ、トレゼゲ、ジョルカエフらも優秀なアタッカーである。
しかし彼らが華麗な突破やパス、印象的なゴールを挙げた数秒前には、デシャン、プティ、デサイー、そしてブランらがボールを奪い彼らに繋げている。
ジダン、ブランらを出場停止で欠いたときは、サブメンバー含め全員で彼らの穴を埋めた。
ジダンは今でもブランへの尊敬の念を持ってやまないという。

影でチームに貢献する黒子達は、MVPやバロンドールを手にすることは滅多にない。
しかし彼らは汚れ役を買い、チームタイトルへ向けてひたむきに貢献する。そんな黒子はチームメイトから多くの信頼を得る。
仲間から「こいつがいれば大丈夫」と頼りにされることは、ジャーナリストが選ぶバロンドールよりも栄誉あることかもしれない。
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