草WCCF
WCCFというアーケードゲームを軸に、Jや欧州等のリアルサッカーの話題とか、全然関係ない話とかをするところ。初めての人は「はじめに」みといてね。
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日本の神話
サッカーの世界には数多くの天才が存在するが、ブラジルやアルゼンチンなどは「天才」を冠する選手が非常に多い。
そんな中で、世界的に無名な弱小国から超一流の選手が排出される、「突然変異」とも呼べる選手が、非常に稀ながら存在する。
代表格は、北アイルランドという小国出身ながら「世界初のフットボールスター」と呼ばれるほどの脚光を浴びた名手、ジョージ・ベストだろう。
今日まで北アイルランドからはベストと同格の選手は現れておらず、今後もその可能性は非常に低いと思われる。
この「突然変異」は、幸運なことに日本にも起こっている。まだ日本にプロサッカーという概念が無かった時代。彼は現れた。
そして不幸なことに、当時と比べ圧倒的に環境が整った現在になっても、彼と同等の評価を得た日本人は現れていない…
 第18回 釜本 邦茂

1944年4月15日、京都府京都市のスポーツ一家に生を受けた釜本は、一言で言えばスポーツ万能の少年であり、サッカーだけに留まらずあらゆる競技で才能の片鱗を見せていた。
そんな中でも釜本は当初、将来は野球選手になろうと思っていた。サッカー文化が根付いていない日本では当然の選択だった。
そんな釜本に声をかけたのが、当時小学校で釜本の教師をしていた、京都紫光クラブ(現京都サンガF.C.)所属の池田璋也だった。
池田は釜本に「野球が巧くても脚光を浴びるのは日本とアメリカだけ。サッカーならオリンピックにも出られるし世界中に行ける」と説得。
釜本は池田の教えを受け、本格的にサッカー一本に絞ることになった。そして釜本は日本のサッカー史を大きく変えることとなる。

余談だが、釜本が引退後しばらくして強豪高校球児と野球対決をしたことがあった。
釜本は高校生の投じる球の速さに舌を巻いたものの、数球見送り目を慣らした後1スイングでホームランを放ち、「野球選手になっていれば王、長嶋クラスになっていただろう」と言われた。
釜本がサッカーを選んでくれたことを、我々日本人サッカーファンは感謝すべきなのだろう。

京都府立山城高等学校に進学した釜本は早くも頭角を現し、その年の国体で優勝。その活躍が認められ翌年、京都サッカー協会が主催する大学生以上を対象としたサッカー講習会に特例として参加
ここで釜本は決定的な出会いをする。1964年に控えた東京オリンピックのために日本サッカー協会が召集した初の外国人コーチ、ドイツ人のデットマール・クラマーである。
このクラマー、「日本サッカー育ての親」とも呼ばれる、日本サッカーの歴史を語る上で欠くことのできない存在である。
徹底した指導で代表を鍛えたし、65年に発足した日本サッカーリーグ(Jリーグの前身)もクラマーの進言によるものだった。
クラマーは釜本を一目見るや「敏捷性を増さなければならないが、素晴らしい逸材だ」と評価した。釜本もまたクラマーの技術力の高さに感嘆し、積極的に教えを受けた

クラマーは後にバイエルン・ミュンヘンを率いてUCLを獲得する名将であるが、彼が初めて日本代表の練習風景を目にしたとき「とてもサッカーと呼べるものではない」と言い放った。
しかしクラマーの指導を受けた日本代表は東京オリンピックで、ストライカー杉山隆一の獅子奮迅の活躍で強豪アルゼンチンを破る大金星をあげた。
20歳の釜本もアルゼンチン戦でアシストを決めるなど勝利に貢献するも、その才能の片鱗を見せるのみに止まった。

しかし国内レベルでは釜本は無敵を誇った。
1963年に早稲田大学に入学すると、その年の関東大学リーグに優勝。自身は4年連続で得点王に輝く。
更に1964年には日立製作所(現柏レイソル)、1967年には東洋工業(現サンフレッチェ広島)を退け天皇杯に2度優勝。これを最後に大学勢の天皇杯優勝は成し遂げられていない
特に67年決勝ではMFとしてプレイ。自慢のキック力をパスに活かし、ゴールゲッター一芸だけではないという面も見せつけた。

釜本のストライカーとして最大のストロングポイントは右足であり、特にゴールから右45度の位置での決定力は、クラマーをして世界最高クラスと評された。
が、釜本が早稲田大学1年の時、クラマーは釜本にこう言い放ったという。
「ミギ、インターナショナル。ヒダリ、ハイスクール」
恩師の言葉に釜本は意地になり、左足でのシュートを重点的に鍛えた。
更に代表では、釜本にストライカーの座を譲り左ウィングに移った杉山のドリブルからセンタリングの練習に合わせて、1日200本の練習をひたすら繰り返した。
杉山のクロスに対して右足はもちろん、球筋によって左でも頭でも。
結果釜本は左でも頭でもゴールできる万能型ストライカーへと変貌を遂げ、更に杉山とは目を合わせただけで意思疎通が可能なゴールデンコンビを形成した。

早稲田大学卒業後、4年連続得点王という釜本には数多くの「企業」からオファーが届いた。
数多くの強豪があった中で釜本が「就職」したのはヤンマー・ディーゼル(現セレッソ大阪)だった。
当時関西の弱小チームであったヤンマーへの加入に、釜本は伸び悩んでしまう、最悪潰れてしまうという意見も多かった。
しかし現実はまったくの逆。釜本という強烈な個性はヤンマーという弱小チームを国内の強豪へと押し上げてしまった。

その間、代表でも釜本は常に結果を出していた。
東京オリンピック以降エースとして君臨していた釜本は、67年から始まったメキシコ五輪アジア予選では、台湾戦でハットトリック、フィリピン戦ではダブルハットトリックと圧倒的な存在感を放ち、11ゴールをあげて予選突破に大きく貢献した
そしてオリンピックを直前に控えた68年1月。釜本は選手として最後の殻を破る。

釜本はクラマーの推薦を受け、ドイツへ単身留学した。
チームでの遠征ではなく、たった一人での留学は日本初の試みであり不安視もされた。しかしクラマーは自信たっぷりに「帰ってきた釜本を見てくれ」とコメントした。
西ドイツの1.FCザールブリュッケンというクラブへ2ヶ月の短期留学した釜本は、後に西ドイツ代表監督を務めるユップ・デアヴァルから指導を受け、より驚異的なストライカーへと進化を遂げた
トラップからシュートまでの動作が恐ろしく速くなり、マークを外す動きが鋭くなった。
元来の決定力にも更に磨きをかけ、本場のフィジカルトレーニングで逞しさはより増した。

若き日にクラマーから足りないと言われた敏捷性を身につけた釜本は、帰国後の遠征では堅守で知られるアーセナルからゴールを奪ってみせるなど、一流のDF相手にも通用することを証明してみせた。
屈強な釜本を要した日本代表は、「堅守からの速攻で釜本に合わせる」というスタイルを確立するために、数多くの遠征をこなして連携を高めた。
東京オリンピックから殆ど変わらないメンバーで繰り返し遠征を行った結果、個人技で劣る日本代表は抜群の連携と世界レベルのフィニッシャーという武器を得た。
そして彼らは68年メキシコオリンピックで奇跡を紡いだ

一次リーグ初戦のナイジェリア戦では釜本のハットトリックで3-1の快勝。
続くブラジル戦ではヘディングで味方へのアシストを決めて1-1のドロー。
最終スペイン戦スコアレスドローに終わるも、スペインに次ぐ2位で決勝トーナメント進出。ブラジルを蹴落として。
準々決勝ではフランスを相手に2ゴール1アシストと全得点に絡む大車輪の活躍で3-1
勝てばメダルの決まる準決勝のハンガリー戦は0-5で敗戦するも、3位決定戦ではプロで固めた開催国メキシコを相手に2ゴールをあげ2-0
日本のゴール全てに絡んだ釜本は、右足で4点、左足で2点、ヘディングで1点を叩き出し6試合で7ゴール。日本サッカー史上に燦然と輝く銅メダルと大会得点王
クラマーの指導と抜群の守備組織、杉山のチャンスメイクに釜本の決定力が生み出した快挙。
アジア勢のメダル獲得、アジア人得点王という記録は現在も破られていない(2009年現在)。

しかし、結果的にこの銅メダルが釜本のキャリアのピークとなる。
24歳の釜本を前に、そのようなことは誰も信じられないものではあったが…

スケジュールの都合上辞退したが、オリンピック後の世界選抜対ブラジル代表にも招待された
当時出場したのはレフ・ヤシンフランク・ベッケンバウアーペレ。その舞台へ立つことを許される程の評価だったといえる。
その活躍ぶりから海外からのオファーもあった。しかし合意には至らなかった。
ファンに囲まれサインをする釜本に、どさくさにまぎれて色紙ではなく契約書にサインをさせようとした者もいたが、クラマーらが阻止した。
釜本と同様に素晴らしい評価を受けた杉山もまた、日本を出て行くことは無かった。
(東京五輪での活躍を受けて杉山には南米のクラブから20万ドルのオファーがあり、「黄金の足を持つ男」と呼ばれていた)
まだ日本は、彼らが世界へ羽ばたく時代ではなかった。

日本へ戻りヤンマーを天皇杯初優勝へ導き、同年の最優秀選手に選ばれた釜本を待っていたのは、長い闘病生活だった。
69年6月、日本代表合宿中にウィルス性肝炎を発病し入院。2ヵ月後に退院するも医師の許可が下りず、70年メキシコワールドカップ予選を棒に振る
銅メダルを獲得したとき「このチームをW杯の舞台で世界に披露したい」とクラマーは願ったが、エースの離脱によりそれは叶わぬ夢となった。

釜本自身も発病以降コンディション不良に悩まされ続けた。
エースとして国内の試合に出場し続け、その間に通院。病院とピッチを行き来する生活は4年間続いた。
その間もヤンマーは71年に日本リーグ初優勝。釜本も66年から数えて3度目の最優秀選手に輝くなど、数年がかりでトップフォームを取り戻していった。
若い頃の強引なプレーは徐々に形を潜めていたが、マーカーの視野から消える動きなどクレバーな動きを身につけ、第二の全盛期を迎えヤンマーを様々な国内タイトルへ導いた。

代表にも70年に復帰。だがクラマーは既にドイツへ帰国しており、メキシコでは若手だった釜本がベテランになり、メキシコで中堅だった先輩は軒並みピッチを後にしていた。
新たなチームを心身ともに引っ張るリーダーとしての役割も担い、クラマーが夢見たワールドカップ出場を目指した。
新戦力奥寺康彦の台頭により、かつて杉山がそうしたようにポジションを1列下げ中盤でのゲームメイクを担当するなど尽力を尽くすも、ついに予選突破は叶わなかった。

77年、代表を引退し、翌年からは選手兼監督としてヤンマーを牽引する。
80年には以前断った世界選抜に参加ヨハン・クライフやミシェル・プラティニらと共にプレーするも、82年に2度のアキレス腱断裂
その後復帰するもゴールをあげることは出来ず、1984年1月1日の天皇杯決勝を最後に現役を引退した。


釜本は日本史上最高のストライカーと評される。彼の逸話は実に様々なものが残されており、中には常軌を逸したものもある。
釜本のシュートを受けた、あるGKは手のひらに裂傷を負った、あるGKは指の神経が切れてしまった、など。
しかし現在を生きる我々にとってそれは時に誇張された回顧録にも見える。現在の日本へのアンチテーゼに聞こえてしまうこともある。
彼への評価は果たして真実なのか?オリンピックでの活躍はフロックではないのか?獲得した国際タイトルが銅メダルのみで真に偉大といえるのか?

では釜本の記録をまとめよう。
クラブレベルでは日本リーグ優勝3回。天皇杯優勝2回。得点王7回。アシスト王3回。通算251試合出場、202ゴール79アシスト。ゴール数アシスト数は共に歴代1位。特にゴール2位の選手は90にも満たない。
しかし、これらはいずれもアマチュアでの記録である。
では日本代表としてはどうか。こちらは76試合75ゴールで歴代1位
2位は三浦知良の55ゴールであり、3位の選手は更に20ゴール近く及ばない。三浦も釜本より出場試合が10以上多いが追いつくに至っていない。
親善試合などを含めるとその数は231試合153ゴールにまで上る。
従って記録上釜本は日本で最もゴールを上げたストライカーである(統計の種類によっては釜本55ゴール、三浦56ゴールとなっている場合もある)。
では世界での評価はどうだったのか。クラマーは釜本を世界レベルと評したが、本当に彼は世界に比肩し得る選手だったのか。

メキシコ五輪を前に日本代表が行った遠征試合を取材したとある記者は、ワールドサッカー誌に
「日本にジョージ・ベストに匹敵するストライカーが現れた」
と寄稿した。

同時期の遠征でアーセナルを相手に見事なダイビングヘッドを決めると、当時のアーセナルの監督
日本にカマモトのような選手がいるとは思いもしなかった
と感嘆した。

メキシコ五輪準々決勝で対戦した、後にフランス代表のキャプテンとなるスター選手ミシェル・ラルケは、EURO84を取材した日本人記者に対し
「カマモトは元気にしていますか?とても素晴らしい選手でした
と質問してきた。

五輪後行われた世界選抜対ブラジル代表。この試合はブラジルが勝利したが、世界選抜のゴールマウスを守っていたバロンドーラー、レフ・ヤシン
カマモトが出場していれば勝てたのに…
と日本人の欠場を残念がった。

1980年、日本代表と試合をするために来日したヨハン・クライフは、記者に日本代表の強化策を聞かれたとき、
カマモトが代表復帰すれば良い
と答えた。


1984年8月25日、釜本の引退試合が行われた。
アマチュア選手の引退試合という奇妙な光景…だが日本サッカー界に多大な貢献をした彼を盛大に送り出したい。そしてメキシコ以降不振に喘ぐ日本サッカー界にもう一度勢いを取り戻したい。
そして何故釜本のような選手が日本に育ったかもう一度見つめなおしたい、などの思いから試合が実現。
カードはヤンマーディーゼル対日本リーグ選抜。そしてヤンマーには二人の外国人プレイヤーがゲストとして招かれていた。
一人は「怒りの芸術家」という異名を持つ天才レフティゲームメイカー、ドイツ代表ヴォルフガンク・オベラート
そしてもう一人はブラジルの「神様」、ペレだった。
試合は釜本のゴールなどでヤンマーが3-2で勝利。試合終了後、ペレとオベーラトらが釜本を抱き上げ、6万人の観客はいつまでも「釜本コール」を止めなかった。
その席でペレはこう語った。
日本の少年達は、立派な手本であるカマモトに学べば良い

ペレ、クライフ、ヤシン…彼らの言葉は社交辞令かもしれないが、そうであってもこれほどの賛辞を送られた日本人は、未だに現れていない。
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