草WCCF
WCCFというアーケードゲームを軸に、Jや欧州等のリアルサッカーの話題とか、全然関係ない話とかをするところ。初めての人は「はじめに」みといてね。
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開拓者
1980年代後半、日本サッカー協会に激震が走った。当時FIFAの代会長であったジョアン・アベランジェから、近い将来でのワールドカップ日本開催を打診されたのだ。
それ以降サッカーを取り巻く環境は激変し、それまで燻っていたプロリーグ化も実現に向けて急激に進んでいった。
1993年5月15日、ついにJリーグが開幕。
以降日本サッカーはめまぐるしい進化を見せ、日本代表もそれまでに比べれば遥かに好成績を残している。
一方個人としても、国内のみならず海外、特に欧州屈指のリーグへ挑戦する選手が何人か出てきた。
しかし、トップレベルの舞台で彼ほどの実績を残した選手は少なく、彼ほど長く一線で活躍した選手は現れていない。
彼はJリーグ開幕の5年前に現役を引退しており、その時代唯一の欧州挑戦者であり、唯一の成功者である。
 第19回 奥寺 康彦

奥寺は1952年3月12日に秋田県鹿角市に生まれ、小学校の時は主に卓球をやっていた。
小学校4年生のときに親の仕事の都合で横浜へ引っ越し、中学校へ進学すると友人の勧めから卓球部からサッカー部へ変更。
比較的遅い時期に本格的にサッカーを始めるも、当時の環境は決して恵まれたものではなかった。
満足に整備されておらず石も転がったデコボコの土のグラウンド。ゴールも正規のものではなくハンドボール用のものしかなかったという。
だが50mを6秒5で走りきるスピードと、小さなゴールでの練習が功を奏したのか抜群の決定力を武器に、後の功績の礎を築いた。
高校に入り身体面の成長と共に更に逞しさを増した奥寺だったが、全国高校選手権には3年生の時に初出場、1回戦敗退とやや寂しいものであった。

1970年、高校を卒業し奥寺は日本サッカーリーグに所属している古河電気工業(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入社。
相変わらず抜群のスピードと決定力を売りにしていた奥寺はユース代表とA代表デビューを同年に達成するなど、徐々に将来を渇望される存在となる。
しかしその後椎間板ヘルニアを患って入院し数年間闘病生活を余儀なくされるなど、暫くは停滞期が続く
国内有数の選手であることに疑いの余地は無かったが、それ以上の評価を得ることは出来なかった。

そんな奥寺にとって第1の転機となったのが1976年。
古河工業がブラジルに工場を持っていた関係で、奥寺はブラジルへ2ヶ月間の単独留学をする機会を得る。
僅か2ヶ月の短期留学。決して高待遇とはいえない環境の中での留学であったが、先人釜本邦茂同様、この短期留学は奥寺に劇的な変化をもたらした。
プレーの一つ一つが洗礼され鋭さを増し、個人技に磨きをかけつつも周囲を見極める状況判断も的確となり、単独でもチームプレーでも輝ける存在となった。

帰国後、日本代表として自身初の大舞台であるムルデカ大会(マレーシアで開催される、東南アジアを中心とした国際大会)に出場。
成長した奥寺の評価は、釜本のポジションを1列下げさせるまでに至った。しかし奥寺はこの期待に見事に応える形となった。
奥寺のスピードと釜本の熟練の試合を読む力が相乗効果となり、日本は準優勝。奥寺はA代表初のハットトリックを含む7試合7ゴール、大会得点王という記録を残した。

その年の日本サッカーリーグでは中心選手としてリーグ優勝に貢献。更に天皇杯も制し、国内での評価を不動のものとしていた。
しかし77年3月に行われたアルゼンチンW杯アジア一次予選ではイスラエル、韓国を相手に1勝も出来ず敗退。これを最後に釜本は代表を引退。
その後の代表を背負うことを奥寺は期待されたが、奇妙なことに奥寺が次に代表として公式戦を戦うのは9年も先の話となる。

77年夏、日本代表監督をしていた二宮寛は、代表選手をドイツ国内へ分散させて短期間預けるという分散合宿を行っていた。
奥寺が向かった先は、二宮と親交を持っていたヘネス・ヴァイスヴァイラーが監督を務めていた1.FCケルン
これが奥寺にとって第2の転機だった。
ヴァイスヴァイラーはケルンの左ウィングをウィークポイントと考えており、このポジションの補強を強く希望していた。
そこに合宿でやってきた左ウィング奥寺のスピード溢れるプレーにヴァイスヴァイラーは一目惚れしてしまった。
ヴァイスヴァイラーは奥寺の評価に確信を得るために、ケルンのトップチームとの紅白戦に参加させる。
実質入団テストとなったこの紅白戦で奥寺は変わらず素晴らしいパフォーマンスを披露し、その場で二宮に「彼を獲得したい」と打診。
当然代表監督である二宮には決定権は無く、ヴァイスヴァイラーはひとまずの話として奥寺自身に獲得を打診する。

しかし奥寺の答えはNOだった。ある種当然の選択であった。
それまでの日本では全く前例の無いプロの世界での挑戦。しかも舞台は前回W杯優勝国ドイツ、当時世界最高峰という評価を受けていたブンデスリーガ
自分の実力で通用するかどうか、確信なんてひとつも無かった。
更に当時のブンデスの外国人枠はたったの2。たとえ通用したとしても、些細な怪我でその地位を失うかもしれない。
試合に出られなければ当然契約を打ち切られ、収入がなくなる世界である。当時25歳で妻子持ちだった奥寺。問題は山積みだった。

ひとまず奥寺ら日本代表は帰国。そして古河工業に、ケルンから正式に奥寺獲得の申し入れが届いた。
契約金3000万円、年俸2500万円という、無名のアジア人に対しては破格のオファーだった。
一度は断ったオファー。しかし家族や会社、協会と何度も話し合いを繰り返した結果、そこまで自分を必要としてくれたヴァイスヴァイラーの熱意に答え、また自分の実力を試すために歴史的決断を下した。
1977年10月7日。ドイツへ渡り正式に契約に合意し入団。日本人初のプロサッカー選手が誕生した瞬間であった

契約した5日後の試合で早速ベンチ入り。22日にはスタメンに名を連ねた。
当然ながら言語も習慣も全く異なるドイツでの生活に馴染もうと努力しながら、いざ試合となれば左ウィングとしてヴァイスヴァイラーの期待通りの働きを見せた奥寺。
2ヵ月後にはドイツ初ゴールも挙げ、主力として完全に定着した。
その勢いはチームにも乗り移り、同シーズン、ブンデスリーガとドイツカップの二冠を達成。デビューシーズンとしてこれ以上ない成績だった。

翌年はUEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)にも出場。
各国の強豪を押しのけ準決勝まで勝ち進み、優勝候補筆頭だったイングランドのノッティンガム・フォレストを相手に、アウェイで2-3の状況から貴重な同点ゴールを叩き込んだ
第2戦で破れ欧州制覇の夢は潰えるも、史上初となるアジア人のチャンピオンズカップでの得点という記録を残した。

1978年にはピエール・リトバルスキーが加入するなど、多くのドイツ代表を抱えるクラブにあって確実に結果を残し続けた奥寺。
しかし1980年、奥寺の恩師とも言えるヴァイスヴァイラーがアメリカのクラブへ移籍。新たに監督の座に着いたのは74年W杯でオランダを指揮した伝説的名将、リヌス・ミケルス
ミケルスのもと新たなスタートを切ったチームだったが、奥寺はミケルスの信頼を得ることが出来ず、ベンチで干される日々が続いてしまう。
ドイツに渡った3シーズンでリーグ戦74試合に出場し15ゴールをあげていた奥寺だったが、ミケルスが指揮を執った間はたったの1試合出場するに留まった。

ドイツに来て初めての挫折。試合出場の機会すら満足に与えられない苦悩の日々。
その80-81シーズン中断期間、奥寺に移籍のオファーが届いた。ブンデスリーガ2部のヘルタ・ベルリンからだった。
出場機会に飢えていた奥寺は悩むことなく移籍を決意。今度は2部リーグという舞台で戦うことになった。
ケルン所属の前半戦たった1試合に留まった出場試合数は、移籍した後半だけで25まで伸び、8つのゴールも決めている。
試合によっては守備的な中盤もこなすなどチームの主軸として1部昇格を目指すチームを牽引するも、あと一歩のところで涙を呑み、奥寺自身の1部復帰も絶たれたかに見えた。

しかしここで奥寺に第3の転機が訪れた。
80-81シーズン終了後、またしても奥寺に移籍のオファーが届いた。今度の相手は同シーズンに2部で戦い、見事1部昇格を果たしたヴェルダー・ブレーメン
ブレーメンを率いた知将オットー・レーハーゲルたっての希望で奥寺を獲得したいとのことだった。
奥寺はこのオファーを受け、ドイツ3つ目の、そして最後のクラブへ移籍する。

奥寺をドイツへ招き入れたヴァイスヴァイラーは、奥寺のスピードと決定力、つまりは攻撃力を見込んで彼を獲得した。
しかしレーハーゲルが評価したのは、奥寺の勤勉さとDHで見せた尽きることなき献身性、堅実な守備と確実なプレーだった。
レーハーゲルが奥寺に与えたポジションは前線ではなく、左のウィングバック
低い位置でボール奪取のために走り回り、隙あらば本来のウィングが如く前線へ駆け上がりサイドをえぐる。
組織プレーの中に個人技を発揮する、それはまさに奥寺にとって「天職」ともいえるポジションだった。

更に左サイド以外にも与えられたポジションがどこであろうと、奥寺は持ち前の勤勉さと堅実なプレーで難なくこなした。
サイドバックからウィング、ボランチからセンターフォワードまで。
システムを選ばず確実な働きをする奥寺に、レーハーゲルはこのような評価をした。
「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」
後にギリシャを率いてEUROを制する名将の、最大級の賛辞であった。


昇格1年目となった81-82シーズン、大方の予想を裏切りブレーメンは5位という好成績を残した。
翌年は惜しくも2位、その後も5位、2位、2位と、確実にブンデスリーガの強豪としての地位を固めていった。
その間、奥寺はほぼ全ての試合に出場し続けた。ウィングバックを基本に、システムが変わってもポジションを移し続けて。
ブレーメンに在籍した5シーズンで、奥寺がリーグ戦に出場しなかったのは僅か11試合のみ。63試合連続試合出場という記録も持っている。
比較的守備的な位置での起用が増えたためゴール数は減ったものの、奥寺の働きがいかに監督に重宝されていたのかが分かるだろう。

ドイツの人々はあらゆるポジションを万能に、そして高いレベルでこなす奥寺を「東洋のコンピューター」と呼んだ。
彼のプレーはどのような試合でどのようなポジションにいても機械のような理解力と正確な動きで、間違いを犯さず確実に結果を残す、という意味だった。
9年間、235試合に出場し25ゴール。UEFA主催の大会に6度出場したアジア人は現時点で奥寺だけである(2009年現在)。
世界最高峰の舞台で日本人が残した、奇跡といっても良い成績だった。

1986年、34歳になった奥寺は惜しまれつつもドイツを後にした。
行き先は日本
。まだ自分の体が言うとおりに動くうちに日本のサッカー界に持てる全てを伝えたいという決断だった。
同年、木村和志と共に「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」契約を結ぶ。日本に初めて「国内プロ」が誕生した瞬間だった。
これを皮切りに翌年には「ライセンス・プレーヤー」と名義を変え、新たに72人が登録。後のJリーグ発足のきっかけとなった。

しかしピッチ上での奥寺は予想外の事態に直面していた。

古巣、古河工業に復帰した奥寺だったが、ドイツで鍛え抜かれた状況判断と技術に、古河工業の面々は全くついていけなかった
奥寺の鋭いパスは棒立ちの仲間に全く通らず、周囲のオフザボールの動きはドイツに比べ悲しいほど陳腐で、孤立した奥寺は易々ボールを奪われた。
若き日のスピードも斜陽にあったベテランの奥寺に、一人で試合を決定付けるような働きは出来なかった

不思議なことにピークを迎えてからの奥寺の能力は「対戦相手が日本国外のクラブ」の時に真価を発揮した。
奥寺が最後の輝きを放ったのは、天皇杯を棄権して挑んだアジアクラブ選手権(アジアチャンピオンズリーグの前身)だった。
地元サウジアラビアのチーム、アル・ヒラルをハットトリックで蹴散らすなど主力としてチームを牽引する大車輪の活躍。
古河工業はそのままアジアの他クラブを蹴散らし優勝。日本のクラブが初めてアジアを制する原動力となった。

ドイツで、アジア選手権で燦然と輝きを放った奥寺は、9年ぶりに日本代表に復帰し、左サイドバックとしてソウルオリンピック出場を目指した。
しかし五輪最終予選では中国の前に涙を呑んだ。奥寺の逆サイドを徹底的に突かれた結果だった。
国内でも結果を残せずに、88年に現役を引退。ドイツで華々しい実績を引っさげかえってきた奥寺が、日本でプレーしたのはたった2年だった。
引退試合は日本代表の親善試合として、マラド-ナ、カレッカらを要するイタリアのナポリを招いて行われた。

日本にとって残念だったのは、奥寺が選手として絶頂期にあったドイツ時代に日本代表に招集されなかったこと。
理由は諸説ある。クラブが召集に難色を示した、奥寺自身が召集を辞退した、日本サッカー協会にそれほどの力が無かった、など。
奥寺のキャリアがあまりにも時代を先取りしていたため、日本がそれについていけなかったのだろう。
もし全盛期の奥寺が日本代表のユニフォームに袖を通していたら、日本のW杯初出場はもっと早く成し遂げられていただろうか。


後に奥寺はインタビューで「何故ドイツであれだけ長くプレーできたのか」と質問され、以下のように答えている。
「自分はスーパーな選手ではなかったけれども、例えて言うなら1+1を必ず2にできるような確実性は持っていたからだろう」
確かにケルンで評価された個人能力よりも、複数のポジションを任せられるような器用さと勤勉性こそが「東洋のコンピューター」の由来だろう。
それはまさに日本サッカー界で日本の特徴として古今叫ばれている、日本人の長所に他ならない。
奥寺が現役の頃より圧倒的に整った環境を持つ日本サッカー。そろそろ「第二の奥寺」としてキャリアを語られる選手が出てきてもいい頃である。
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