草WCCF
WCCFというアーケードゲームを軸に、Jや欧州等のリアルサッカーの話題とか、全然関係ない話とかをするところ。初めての人は「はじめに」みといてね。
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永遠の少年
彼は「KING」と呼ばれた。
彼は日本サッカー界に多くの喜びと栄光をもたらした。だかそれと同等、あるいはそれ以上の失望も経験した。
彼は多くの人間から尊敬を集めた。そして多くの人から同情もされた。
彼は非常に多くの挑戦をした。その中には成功もあった。失敗もあった。
彼は時にサポーターから多くの非難を浴びた。しかしそれとは比べ物にならないほどの多くの喝采と賛辞を浴びた。
彼は今でも「KING」と呼ばれている。

 第20回 三浦 知良


1967年2月26日、日本のサッカーどころ静岡県静岡市で産まれ、サッカー指導者である叔父にその名をつけられる。
幼い頃からサッカーが大好きで、兄泰年と共に小学校の時には伯父が監督を務めるチームに所属。日がな一日ボールを蹴って遊んでいたという。
小学校4年生のときに両親が離婚。母方に引き取られ三浦知良となった。

身の回りにサッカーに関わっていた人物が多かったため、当時としては珍しいくらいにサッカー1本だった。
と同時に幼少期にテレビで見たブラジル代表のプレーに感銘を受け、サッカー王国ブラジルへの強い憧れを抱くことになる。
将来の夢ももちろんサッカー選手。中学の時の進路指導時、希望進学先に「ブラジル」と書いて先生にこっぴどく怒られたりもした。
その後、(恐らく)不本意ながら静岡学園高校に進学。しかしその夢は固く大きく、1年生のときの地元新聞のインタビューに
「ブラジルでプロ選手になって、いつかはワールドカップに出たい!」
と語っていた。当時の日本ではW杯といえば専らバレーボールであり認知度の低い時代。呆れるほどにサッカー小僧だった。
そしてカズがその他多くの少年たちと違っていたのは、サッカーに対する真摯さ愛情、そして行動力だった。

1982年、カズは高校を中退してブラジルに行きたいと申し出る。中退の話を受けた先生は「99%失敗する」と言い引き止めたが、カズは
「1%あるのなら、その1%を信じます」といい、迷うことなく学校を辞めてしまう。
こうしてカズは、たった一人でブラジルへ向かった。自分の夢に対し、よりリアルな一歩を踏み出すために。

ブラジルで数年間の下積みを経て1986年2月に名門サントスFCと正式にプロ契約。第一の夢を叶えた瞬間だった。
しかしカズのプレーはサントスで全く通用せず、1年間で出場したのはたったの2試合のみ。
地元マスコミからは「日本人にサントスのウィングが務まる筈が無い」と叩かれ、チームメイトからも差別や侮辱を受ける辛い日々となった。
その後サントスから事実上戦力外とされ、ブラジル国内の中小クラブを転々とすることになる。

何度か諦め日本に帰国することも考えたカズだが、この間に後の代名詞となるドリブルをはじめ、基礎技術を徹底的に鍛えなおした。
1988年、事態は徐々に好転する。サンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーというクラブに所属したカズは、コリンチャスを相手にリーグ戦初ゴールを記録。
その後もコンスタントに活躍を続け、記者によるポジション別MVP投票で左ウィング第三位、ジャウー市から名誉市民賞を授かるまでになる。
翌年にはコリチーバFCへ移籍し主力として活躍。パラナ州選手権優勝に大きく貢献した。

シーズン終了時にはいくつものクラブからオファーが来る引く手あまたの存在となったカズ。
1990年2月、彼が移籍したのは数年前に戦力外になったサントス。首を切られた当時からもう一度サントスで自分の力を証明したいと思っていたカズに迷いは無かった。
カズは武者修行の成果を見事に発揮し、左ウィングのポジションを奪う。その切れ味鋭いドリブルで「ブラジルで5本の指に入るウィング」と評され、サッカー王国での評価を不動のものとした。
しかし見事に自身のリベンジを果たしたカズのサントスでの生活は、たった半年で終わりを迎える。

1990年7月、カズが次に向かった先は日本のヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の前身、読売クラブ。Jリーグ開幕がいよいよ現実味を帯びてきた母国に満を持しての帰国。
入団発表の記者会見の席で「日本代表をW杯に出場させるために帰って来ました」とカズが言うように、代表で結果を残すためにブラジルよりも日本で、という決断だった。
同年9月に日本代表にもデビュー。その後暫くは奥寺同様ブラジルと日本のサッカーの違いに戸惑うも、徐々に日本のサッカーに慣れていった。

1992年、日本代表初の外国人監督に就任したハンス・オフトの元、同年のダイナスティカップ(現東アジア選手権)、アジアカップどちらも初の栄冠に輝いた。
アジアカップ決勝で決勝ゴールを挙げ「足に魂込めました」と語ったカズは、両大会でMVP、同年のアジア年間最優秀選手にも選出。完全に日本のエースストライカーとなった。
そしてアジアですらサッカー後進国だった日本が、プロ化を目前に世界へその成長の証を発信した意義のある年となった。

1993年、ついにJリーグが開幕。先人たちが待ち望んだ、日本国内プロリーグだった。
世界の往年の名選手らも参加し、一大Jリーグブームを巻き起こしたこの舞台でカズは日本人最多となる20ゴールを挙げ、初代MVPを獲得。ヴェルディ川崎のJリーグ初代チャンピオン達成に大きく貢献した。
更にカズがゴールを決めた際に行ったゴールパフォーマンスはカズダンスと呼ばれ子供たちをはじめ大きな注目の的となり、カズは日本で最初のフットボールスターとなった。

前年の国際大会での実績、そして今年の盛り上がり。まさに満を持した状態で始まったアメリカW杯予選
カズはエースとしてその役割を果たし、一次予選では8試合9ゴール、最終予選でも5試合で4ゴールを挙げた。
特に韓国戦では決勝ゴールを決め、W杯予選では40年もの間日本の前に立ちはだかってきた宿敵に、大舞台で大きな勝利を挙げた。
カズの活躍を連日記載した地元カタールの新聞には「KING KAZU」の文字が躍った。
最終戦を前に日本は得失点差で2位。引き分けても他国の結果次第、勝てば文句なしというところまでW杯初出場を手繰り寄せていた。
カズはTVカメラに向かって拳を突き出し「頑張るから、必ずW杯に行くから」と誓いを立てた。

イラク戦の後半ロスタイム、コーナーフラッグ付近で相手のマークについたカズは、懸命に足を伸ばすもクロスを上げられた。
ボールはイラク選手の頭にピンポイントで合い、そのまま日本のネットに転がった。瞬間その場に泣き崩れる青の選手たち。
手の届くところまで、本当に掴めそうなところまで来ていた夢は、最後の最後で日本に背を向けた。
韓国では奇跡として語られるドーハの悲劇。日本はW杯出場を逃した。最終予選得点王となったカズにとっては、より一層辛い現実だった。

1993年末、「ACミラン対世界選抜」にFWとして招待されアシストも記録。アジア人として最高峰という評価を受けていたカズ。
そして1994年、カズはアジア人として前人未踏の挑戦をする。7月28日、ジェノアへ1年間のレンタル移籍。アジア人初のセリエAプレーヤーが誕生した瞬間だった。
国内ですら期待よりも不安の声が多く懐疑的な声が目立ったが、カズは「(日本人では)通用しないから行くんです」と言い切った。
しかしデビュー戦となったACミラン戦、フランコ・バレージと接触した際に鼻骨骨折と眼下系神経を損傷。
医師に頼み込んで離脱期間を1ヵ月にしてもらうも、21試合に出場し僅か1ゴールに留まる。
自身が目標にしていたであろう、日本人フットボーラーの価値の証明が成されたかは疑わしい。

レンタル期間終了後、スペインやスイスのクラブからオファーもあったが諸々の事情で帰国。
帰国後は川崎のエースとして不動の活躍を見せ、1996年にはJリーグ得点王に輝く。
抜群の決定力に磨きをかけ続け、代表でも常に主力。カズの居ない日本代表など考えられなかった。
そして4年前のリベンジを固く誓い挑んだ、フランスW杯アジア最終予選
初戦のウズベキスタン戦、キックオフの直前に城彰二とセンターマークに置かれたボールに手を置き祈った。
今度こそ日本がW杯へ行けるように…

このウズベキスタン戦こそ4ゴールを挙げ6-3での勝利に貢献するも、次戦UAE戦は引き分け。
更に続く韓国戦は1-2で破れ、カズ自身もGKと接触した際に尾てい骨を亀裂骨折する悲運が襲う。
エースの重責を担い故障を抱えたまま試合に出続けるも、体が思うように動かずゴールを挙げることが出来ない。
3試合勝利無し。終了間際の失点を繰り替えす日本は予選中に監督交代の荒療治を行う。
その後も2試合引き分けが続き、韓国のW杯出場が決定。日本は最後の2試合を連勝し辛くも3位決定戦に望みを繋ぐこととなった。
結局カズは初戦以外でゴールを挙げる事は出来ず、サポーターやマスコミからは「カズ不要論」が聞かれるようになった。

イランとの3位決定戦、カズはスタメンとして出場するもやはり動きが重く、1-2でリードされた後半18分に途中交代
その後交代で出場した城が同点ゴールを挙げ、延長後半13分にやはり途中出場の岡野雅行のゴールデンゴールが決まり、W杯初出場を決めた(ジョホールバルの歓喜)。
W杯予選全試合にほぼスタメンとして出場し初戦以外結果が出なかったカズと、モチベーションを保ち途中出場から決定的な仕事を果たした控えFW。
本大会直前の合宿で岡田武史監督が、W杯本戦メンバーから漏れる3人を発表。「外れるのは北澤、カズ、市川」
幼少の頃からこの舞台を夢見ていたカズは、日本初出場を目の当たりにしながらフランスへ帯同する事を許されず帰国を余儀なくされた
「誇りや魂は代表に置いてきた」と帰国後語ったカズだったが、年齢的にもピークで迎えられる最後のW杯であろう大会に対する無念は想像に難くない。
記者から「W杯はご覧になられますか?」と聞かれ「当然見ますよ」と即答したカズ。3戦全敗で終えた日本のW杯デビューを、どのような心境で見守っていたのだろう…

1998年、ヴェルディ川崎が経営面で大幅な縮小を余儀なくされ、年俸0円提示を受けたカズは流浪の旅路に出ることになる。
クロアチアの名門クラブ、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍し、自身3度目の国外クラブへの挑戦を決意。
しかしアシストこそ決めるもゴールを挙げることは出来ず、予定より1年早く帰国。自身が熱望した欧州チャンピオンズリーグ出場も夢と消えた。

1999年7月に京都パープルサンガ(現京都サンガFC)へ移籍。
その後代表復帰も果たし翌年にはJリーグで17ゴールを記録し「カズ健在」を充分にアピール。
しかし京都はJ2降格。そして京都から「カズをJ2へ在籍させるのは失礼である」という賛否の分かれる理由で再び年俸0円提示を受ける。
2001年からはヴィッセル神戸に移籍。キャプテンとして初年度こそ11ゴールを挙げ結果を残すも、徐々に衰えが見え始め出場機会も減少していく。
代表でも2000年6月を最後に召集されることは無く、2002年日韓W杯への出場も叶わなかった
カズの人柄を買っていたフィリップ・トルシエ監督はコーチとしてW杯へ帯同してほしいという話を持ち出すも、あくまでも現役に拘ったカズは受け入れなかった。

その後神戸で干されるようになると2005年7月、今度はJ2の横浜FCへ移籍。そして同年11月、カズにレンタル移籍のオファーが来る。
オーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてカズ獲得を打診したのはシドニーFCだった。
12月に開催される、第一回FIFAクラブワールドカップ出場が決まっていたシドニーへの移籍。
カズAリーグ4試合に出場し2ゴール、CWCにも2試合スタメンとして出場し、前身インターコンチネンタルカップから数えて初めて出場した日本人となった。

日本に戻ったカズは横浜FCの一員として、年齢的衰えも考慮してかOMFやDMFでの出場を直訴するなど、現在でもプロサッカー選手としてのキャリアを続けている。


カズには確かな実力があったが、晩年になるとピッチ上の実力というよりネームバリューとしての効果が期待されることが多くなっている。
CWCの件も放映権を得ていた日本テレビからの打診があったとされるし、ピーク時に挑戦したセリエA移籍でさえジャパンマネーを意識したものという説もある。
しかしたとえピッチ上でのパフォーマンスに衰えが見えても、カズほど尊敬の念を集めるサッカー選手が果たして居ただろうか。
カズは釜本邦茂ほど才能は無かったかもしれないし、奥寺康彦ほど実績を残したわけでもない。しかしカズ程日本を熱狂させたサッカー選手は存在しないだろう。
後に日本人として初めてセリエAを制した中田英寿も、移籍はカズの影響からと語っており、ジーコが代表監督に就いた際には「カズを代表に呼ぶべきだ」と再三説得したという。

2006年のW杯出場メンバーが発表されたとき、カズは「次は2010年に向けて頑張ります」と発言した。
その頃には43歳。実力で代表を勝ち取る可能性は、かつてブラジルに挑戦した際に言われた1%、もしくはそれにも満たないかもしれない。
恐らくカズは選手としてW杯の舞台に立つことなく現役を終えるだろう。残念ながらその可能性は非常に高い。功労者召集でもされない限り。
それでも「代表は憧れのチーム、現役である以上可能性はある」と今でも公言し、常に代表のスケジュールを確認しては「この辺りの試合で活躍すれば呼ばれるかも」と語るカズ。
その発言は冗談に聞こえるかもしれないし、嘲笑の対象かもしれない。それでもそう語るカズの目には一点の曇りも無い。

カズのサッカーに対するモチベーションはどこから来るのだろう。
不惑を迎え、決して楽ではないフィジカルトレーニングをこなし、クラブでの練習を終えても時間があればコンディション作りに精を出す。
カズより若く、カズより遅くプロデビューを果たした選手たちが次々引退しても、現役選手としてピッチ上で走り続ける。
その顔にはしわが増え、頭髪にも徐々に霜が降り始めている。確実に迫っている老い。
しかしその心だけは、幼少期にボールを追いかけていた頃からなんら変わっていないように思える。
「自分がサッカーを辞めた姿を想像できない」
「出来ることならずっと現役を続けていたい」
「毎日でも試合をやりたいくらいサッカーが好きだ」

いずれも40歳を超えてからカズが発した言葉である。
この「サッカーをプレーする」ことに対する愛情が無くならない限り、カズの現役生活は続いて行くのかもしれない。
そしてこの発言の限り、カズが現役を退くのはまだ当分先のようにも感じる。
神戸で出場機会を失ったときカズはこう話している。
「これでオレが引退すると思っているのかな?サッカーは世界中でやっているんだぜ
日本人現役最年長プロサッカー選手、三浦知良。彼の目はとても広く遠くを見ている。今も、これからも。
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