草WCCF
WCCFというアーケードゲームを軸に、Jや欧州等のリアルサッカーの話題とか、全然関係ない話とかをするところ。初めての人は「はじめに」みといてね。
201709<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>201711
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
しあわせのかたち
サッカーという競技は、その激しさから格闘技だと言われる事がある。時には「戦争」だとも言われる。
だがズボニミール・ボバンは言う。「サッカーは戦争だ、などと言えるのは、本当の戦争を体験していないものだけだ」と。
クロアチア人であるボバンはユーゴスラビアからの独立戦争に、フットボーラーとしてのキャリアを妨害された人間の一人だ。
内戦から始まり広まった戦渦に、運命を狂わされたユーゴスラビア(特にセルビア)人選手は数多い。選手としてだけではなく、人間としても。
これはその中で最も才能に恵まれた男の、強く、悲しく、美しい一部始終である。

1994年末、サッカーの神様ペレはマスコミに「現在世界最高のフットボーラーは?」と聞かれ、こう答えた。
「ロマーリオ、ロベルト・バッジョ、そしてストイコビッチだ。」
 第21回 ドラカン・ストイコビッチ


とにかくそのテクニックはずば抜けていた。とりわけパスの技術に関しては、歴史的名手と比較しても超一級品と思われる。
ダイレクトプレーの中でもその精度は落ちないばかりか距離すらも全く苦にせず、まるでリモコンで操っているかのように精確に、そして舞い落ちる羽根のように優しく受け手へと届いた。
それほどのキックを持つ男にとってゴールは恰好の的でしかなく、決して狙いを外さず時に力強く、時に優しくネットを揺らした。
ドリブルも巧く神業ともいえるボールコントロールを駆使し、キックフェイントからの切り返しはあまりにも鋭利で、対峙したDFは酔っ払いの千鳥足のように左右に揺さぶられた。
ヒールキックやリフティングからのパスなど曲芸師のようなプレーも多くこなすが、それらは華々しいだけでなくしっかりと益を兼ねていた。
つまりは、相手にとっては最も対処の困難なプレーでありながら、その多くが観客を魅了する美しさに溢れた、最高のファンタジスタであった。

彼の生まれた頃、母国の名前は「ユーゴスラビア連邦人民共和国」といった。その中のセルビア共和国、ニーシュという街で幼少時代は延々サッカーで遊んでいた。
幼い頃から小柄で子供たちの間では戦力になるか疑問視されていたが、ゲームを始めれば誰よりもゴールを挙げていたという。アイドルはミシェル・プラティニだった。
しかし幼少期のストイコビッチにはプラティニ以上のアイドルが居た。ある時間になると、たとえ試合中だろうとサッカーを止めて家に帰ってしまったという。
そしてテレビの前で、2匹のネズミが主人公のアニメを欠かさずに見ていた。タイトルは「ピクシー&ディクシー」。
サッカーを中断してまでアニメを見るストイコビッチを、友人達はそのキャラクターからとり「ピクシー」と呼ぶようになった。
元々はネズミの愛称だったこのニックネームが「妖精」と理解されるようになったのは、後のストイコビッチのプレーが妖精の舞のように華麗だったからに他ならない。

14歳で地元の2部クラブ、ラドニチュキ・ニーシュに入団し、2年後の1981年にプロ契約。弱冠16歳でサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。
自身の活躍もあってチームを1部へと押し上げ、その活躍が認められて18歳でプラーヴィ(セルビア語で「青」の意味、ユーゴ代表の愛称)にデビュー。
翌年行われたEURO84ではPKを決め、その後20年間破られることの無いEURO最年少得点記録を打ち立てた(これを破ったのはウェイン・ルーニー)。
20歳になり兵役で1年間サッカーから離れるも、復帰後も変わらず好調をキープ。そして1986年にラドニチュキを離れることとなる。
移籍を申し入れたのは国内最高峰の名門、レッドスター・ベオグラート。移籍を渋ったラドニチュキに対し「そちらの言い値の移籍金+こちらの5人の主力選手」というオファーを出したという。

ツルベナ・ズベズダ(セルビア国内でのレッドスターの呼称)に入団後、ストイコビッチの輝きは更に増した。
1987年に行われたワールドユースに優勝。その内容も絶賛され、多くの人に近い将来ユーゴの時代が来ることを予感させた。
87-88シーズンに自身初のリーグ優勝。後に行われたソウルオリンピックにも出場。3試合に出場し2ゴール1アシストと存在感を発揮。
その後の親善試合では、アーセン・ベンゲル率いるASモナコを相手に素晴らしいパフォーマンスを披露しモナコから獲得の打診があったものの、26歳未満の選手は国外移籍禁止という規約があったため実現しなかった。

88-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、黄金期を迎えていたACミランにPKで敗れはしたものの、若き日のパオロ・マルディーニが全く歯が立たないほどの活躍を見せ、欧州へ自身の能力を知らしめるキッカケとなった。
レッドスターに在籍した4シーズン中は常に2桁のゴールをマークし、2度のリーグ優勝と1度の国内カップ優勝を経験。自身は2度のMVPに輝く。
1989年には「ズベズディナ・ズベズダ」、意味を「星人」(≒聖人)という称号をレッドスターから授かった。
これは10年に一人、レッドスターに多大な貢献をしたとされる選手に送られる称号であり、同時にストイコビッチほどの選手は今後10年は現れないという周囲の評価を意味する。
そもそも現実には、10年どころか現在までにもストイコビッチ以降の受賞者は現れていないのだが。

1990年イタリアW杯予選ではフランスと同居したグループながら、イビチャ・オシム監督のもと圧倒的な強さで本戦出場を決めた。
本大会直前の国内リーグ戦で起こった暴動によりボバンが代表から離脱し、大会中はマスコミが母国民族の選手を使うよう圧力をかける等歪んだ民族愛にも晒されながら、オシムの手腕でユーゴスラビアはベスト8まで勝ち進んだ
とりわけストイコビッチがスペイン戦で魅せた2ゴールは、彼が世界的にも破格の才能の持ち主であるということを世界中に認識させた。
準々決勝、マラドーナ率いるアルゼンチンに一人少ない中で善戦するもPK戦で敗れたが、ストイコビッチの名はマラドーナの後を引き継ぐスター候補として世界に認知された。
だが周囲の予想に反し、その後「ストイコビッチの時代」がやってくることはなかった。

大会終了後、ストイコビッチは遂に母国ユーゴスラビアを後にした。移籍先は当時世界的名門との呼び声も高かったオリンピック・マルセイユ
25歳だったストイコビッチは移籍できないはずだったが、特例としてこれを容認。社会主義国家としては異例中の異例の決定が下り、自身初の国外挑戦となった。
当時のマルセイユ監督、フランツ・ベッケンバウアーは「ストイコビッチは世界最高の選手。数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、それは何か手違いがあっての事だろう」と発言しこれを歓迎した。
名門への加入はストイコビッチに更なる栄光をもたらすはずだったが、彼が直面したのは長い長い苦難の日々だった。
初年度のシーズン第2節、エリア内のボールに喰らいつこうとしたストイコビッチは飛び出したGKと交錯。GKに足を掴まれ膝から落下してしまう。
完治までに計3度の手術を必要とした怪我は、その後数年間ストイコビッチに全力でプレーすることを許さなかった。

怪我で苦しんでいるストイコビッチに追い討ちをかけるかのように、1991年6月、政治的混乱が故郷を蝕む。
独立宣言をしたクロアチアに対しユーゴスラビアが攻撃を開始し、クロアチア戦争が勃発。
故障で出場機会を失ったストイコビッチはイタリアのエラス・ベローナへとレンタル移籍するが、移籍先で待ち構えていたのはチームメイトからの偏見だった。
世界中でクロアチア戦争が報道され、その多くは戦争をけしかけたユーゴスラビア側、セルビア人を「悪」としたもので、ストイコビッチはその血だけで「悪魔のセルビア人」等と罵られた。サポーター、チームメイトなどあらゆる人間から。
そんな環境で結果を残せるはずも無く、イタリアでは21試合に出場し2ゴール。失意のうちにイタリアを去った。

戦争の被害は代表にも飛び火する。
1991年にスウェーデンで開催されるEURO92の予選。ユーゴスラビアは同国史上最強と呼ばれていたが、内戦の危険性を理由に代表を辞退する選手も続出した。
そんな中でもユーゴスラビアは7勝1敗と圧倒的な強さで予選を突破。本大会でも優勝候補筆頭と評されていた。
しかしクロアチアに始まりスロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアなど多くの国がユーゴスラビアから独立、内戦は治まるどころか徐々にその被害を広げていった
92年4月27日、ユーゴスラビアは多くの国の独立を受け、正式名称をユーゴスラビア連邦共和国に変更。
92年5月22日、「空爆を受ける故郷のために私が出来ること」という声明と共にオシムが代表監督を辞任
同5月31日、キャンプインするために訪れたストックホルムの空港でユーゴスラビア代表を待っていたのは、UEFAからの予想外の通達だった。

「ユーゴスラビアの本大会出場権の剥奪及びスウェーデンからの強制退去命令」

優勝候補といわれたユーゴスラビアは開幕を10日前に控え、試合はおろかスタジアムを見ることも許されず帰郷しなければならなくなった。
そしてその穴埋めとして大会7日前に出場が決まったデンマークが、強豪を次々退けまさかの初優勝
ユーゴスラビア代表の面々の無念は想像を絶する程だったに違いない。

「We are people for sports. We are not politician」
引退後、当時を振り返ったストイコビッチが発した言葉である。ストイコビッチはかねてより、「政治とスポーツは別物である」という考えを持っていた人物だ。
内戦の最中、プロサッカー選手という立場から政治的な発言を行った選手は数多く居たが、当時のストイコビッチはそれをしなかった。
逆に多くのユーゴ政治家がストイコビッチの名声を利用しようと自らを応援してほしい等と声をかけたが、それらを聞く耳を持たずに断り続けた。
それだけにEURO92での「事件」は、ストイコビッチにとっては一層辛いものだった。そして「ユーゴスラビア代表」はこれを最後に消滅した

EURO大会後の92-93シーズンはマルセイユに復帰するも怪我の影響で公式戦出場無し。チームはリーグ五連覇を達成したが、ストイコビッチにとっては臍を噛む思いだったに違いない。
試合に出場出来ないストイコビッチに、マルセイユはある提案をする。その才能からストイコビッチの足に保険をかけていたクラブは、契約書にサインをすることで多額の保険金を受け取ることが出来ると持ちかける。
その契約書には「現役引退」が受け取りの条件として組み込まれていた。ストイコビッチを「我がクラブで引退した名手」にしたかったのか、あるいはプレー出来ない彼をお払い箱にしたかったのか。
しかしストイコビッチはこの問いにNOを突きつける。怪我さえ治ればまだ一流のプレーが出来ると信じて、必至にリハビリを続けた。

だが、サッカーの神様はまだストイコビッチに試練を与える。
ようやく怪我も回復に向かった93-94シーズン、あろうことかマルセイユ会長による八百長疑惑が浮上。更に脱税など多くのスキャンダルが発覚。
マルセイユは協会から「昨シーズンの優勝剥奪。今シーズンいかなる成績であろうと、2部リーグへ降格させる」という措置が執られた。
これを機にディディエ・デシャン、アレン・ボクシッチなど多くの選手がチームを去った。そしてストイコビッチもまた、フランスを後にする。

ストイコビッチは移籍先を模索した。しかし故障あけの天才肌の選手に対し、その実力に懐疑的な視線を向けるものは少なくなかった。
更にイタリアで受けた経験はストイコビッチを慎重にさせた。ユーゴスラビアの内戦の状況などは欧州で連日報道され、セルビア人というだけで偏見の目を向ける浅ましい人間は後を絶たなかった
ストイコビッチは家族と相談し、次の移籍先を選んだ。「半年間、欧州を離れよう」。セルビアへの偏見の薄い極東の島国の、生まれたてのリーグへ。W杯得点王ゲリー・リネカーが居るというのも決め手の一つとなった。

名古屋グランパス、6人目の外国人獲得
当時リネカーをはじめ5人もの外国籍選手が所属しており、ストイコビッチは更に増えた外国籍選手として、下位に低迷する名古屋の方向性を疑問視する中での獲得が報じられた。
移籍初年度、今まで世界トップレベルで戦ってきたストイコビッチは、Jリーグの劣悪なピッチや不可解なジャッジ、チームメイトの闘争心の無さに苦しめられた。
1994年8月に行われたJリーグデビュー戦は僅か前半18分で2枚目のイエローカードを貰い退場。その後も警告や退場を繰り返し、結局チームは最下位。サポーターからも罵声を浴びせられる存在となってしまった。

そもそもこのJへの移籍は、欧州復帰を念頭に置いた「腰掛け」の移籍であった。現に契約は半年だけのものだったし、来日したのも本人と妻のみで、子供は親戚に預けたままだった。
シーズン終了後、ストイコビッチは悩んだ。このまま日本を去り、移籍先を探すか。母国の戦火も長引き、欧州でのセルビア人への偏見も相変わらずだった。
そんなストイコビッチに、最下位に沈んだ名古屋の監督変更が告げられる。新たに監督に就任したのは、かつてフランス、リーグ1でASモナコの監督としてストイコビッチと対戦したアーセン・ベンゲルだった。
フランス時代からベンゲルのサッカーに好感を抱いていたストイコビッチは、彼の元でサッカーをしたいという思い、そして日本人に自分の真の実力を知らしめるために名古屋への残留を決意した。

決意を新たにした妖精に朗報が届く。
1992年以来、国連からスポーツ制裁を受けていたユーゴスラビア。ビッグタイトルへのエントリーはおろか親善試合すら許されなかったその制裁が、親善試合に限り解除されることになった。
94年W杯、EURO96へのエントリーは間に合いそうもなかったが、それでも代表でプレーすることを許されず、Jリーグのレベルでは物足りなかったストイコビッチにとっては、約二年半振りに「フットボール」をプレーする機会だった。
代表の名称は「セルビア・モンテネグロ」となったが、かつての仲間達と同じユニフォームを着てベオグラートのピッチに立つ、それだけでストイコビッチは満たされた気分で居た。

チーム戦力を分析したベンゲルは、期待通りストイコビッチの能力を見抜き、名古屋を彼中心としたチームへと改革する。
そして開幕した95年シーズン、序盤こそ躓いたもののストイコビッチは遂に妖精と呼ばれる所以たるプレーを披露。
前年最下位だったチームは1stステージ4位にまで台頭。2ndステージでは2位となり、自身はリーグMVPを獲得。
Jリーグで初めて、優勝チーム以外からの選出に「この喜びは1億ドル出しても買えない」と喜んだストイコビッチ。怪我に苦しんだ妖精が、遂に見る者全てを虜にする舞を日本で披露した1年だった。
そしてストイコビッチのプレーは敵味方関係なくJリーグのサポーターの心を鷲掴みにし、ストイコビッチは国籍問わずJリーグで最も人気のある選手の一人となった。
満員のスタジアムで一斉に起こるピクシーコールに感動したストイコビッチは、欧州人としては珍しく納豆など癖のある日本食も好んで食べるようになるなど、日本を第二の故郷として深く愛するようになる

96年途中でベンゲルはアーセナルへと旅立ってしまったが、この年も名古屋は年間2位となり、押しも押されぬスターと認知されたストイコビッチ。
同12月、スポーツ制裁が完全に解除され待望の98年W杯予選への参加が許可される。
するとストイコビッチは、多い時には週2試合あるJリーグをこなしながら、片道30時間かかる移動をこなしW杯予選との二足の草鞋を履いた
飛行機内で睡眠薬を飲み強引に眠って疲労と戦い、ピッチではプレーでは勿論キャプテンとして精神面としてチームを牽引。
32歳のストイコビッチにとってそれはあまりにも過酷なスケジュールだったが、「自分の愛するチームを勝たせるため」と自ら進んでこなした。
同予選のチェコ戦では、ハーフタイム中に壁にもたれ掛かり、気絶するように眠ってしまったという逸話もある。
これほどの移動をこなしながらも、Jリーグ出場を辞退せずにこなしてくれたストイコビッチのJに対する姿勢は特筆すべきものである。
その甲斐もありユーゴスラビアは善戦、スペインに次ぐ2位となりプレーオフにまわるも、ハンガリーを相手に2試合で12-1と圧勝。
政治的混迷に泣いたユーゴスラビアが、遂に世界の表舞台に帰ってきた瞬間だった。

98年フランスW杯では決勝トーナメント初戦でオランダに敗北するも、自身は一次リーグでゴールを記録。
この時「映画のまねをしただけ」と語るゴールパフォーマンス、腕時計を指さして喜ぶ仕草は、戦火によって止められていたユーゴ代表の時が再び動き出した喜びを表しているようにも取れた。
また、スタジアムで名古屋のユニフォームを着たファンに心から感動したと語るなど、久しぶりの国際舞台を存分に楽しんだ。

だが不幸なことに、ユーゴに新たな戦火の火種が動き始めていた。
その後順調にJリーグでキャリアを続けていたストイコビッチは、再び長距離移動をこなしてのEURO2000予選をこなそうとしていた。
しかし当時ユーゴスラビア領だったコソボ自治州での政治的不安を理由にNATOが空爆を開始。その被害は内戦の時と比べものにならない程だった。
前回の強制除外のような最悪の事態は避けられたが、EURO00の予選は治安を理由に幾度と無く延期。
更にこれにかまをかけた対戦相手が、自国選手の疲労、コンディション回復を目的にこの口実を使いビザを発行しないなど、ユーゴスラビアはまたしてもサッカー以外の要因に苦しまされた。
しかし、ストイコビッチ等にとって何よりも辛かったのは試合云々よりも、自分の生まれ故郷が民族など何も関係のない軍力に激しい攻撃を受けていることだった。
日本に暮らしていたストイコビッチは時間があれば母国の両親と連絡を取っていたが、その電話口に爆撃音が聞こえたことも少なくなかったという。

「スポーツと政治は別」という考えを持っていたストイコビッチは、ピッチ上で初めて抗議した。
見事なパスで仲間のゴールをアシストするとユニフォームを脱ぎ捨て、下に着ていたシャツに書いた文字、
NATO STOP STRIKES」(NATOは空爆を中止せよ)
をテレビカメラに見せつけた。世界中のクラブに在籍したユーゴスラビアの選手達も同類の行動を起こした。
ストイコビッチにここまでの行動を起こさせる程、今回の空爆は酷いものだったということだろう。
これに対し、政治的混乱を理由にユーゴスラビアを大会から占めだした過去を持つUEFAは「政治とスポーツを混同してはならない」と注意を促す。
偏見、権力、武力、ユーゴスラビアは様々なものと戦っていた

一方ストイコビッチ個人としては、久々にプレーヤーとして壁と直面していた。
EURO予選では因縁深いクロアチアと同組になり死闘を演じるも、勝ち点1差で首位となり本戦出場を決める。
36歳で大会を迎えるストイコビッチは、この大会を最後に代表を退くことを決めていた。
しかし代表監督に就任したブヤディン・ボシコフは、決してレベルの高くないJリーグに所属した、大ベテランのストイコビッチをチームの中心にすることを良しとしなかった。
ストイコビッチは代表にこそ招集されるも、それは世論やマスコミの待望論を黙らせる形のもので、実際に起用されることは殆ど無かった。
そして世代交代を掲げ、同ポジションに若いデヤン・スタンコビッチを起用し本戦への準備を進めていた。

しかしストイコビッチは腐ることなく練習に参加し、ベテランらしくスタンコビッチを含むチームメイトに何かとアドバイス、精神的手中を買って出た。
母国では英雄であったストイコビッチの存在は、それだけでチームに絶大な影響を及ぼした。そういった意味ではボシコフの判断は正しかった。
しかしボシコフは、ストイコビッチは今でも英雄であるということを思い知ることになる。

EURO00初戦スロベニア戦、ストイコビッチはスタメンを外れた。
若い選手を中心にスタメンを揃えたユーゴスラビアはビッグタイトルの雰囲気に呑まれ、全く良いところ無く前半23分に失点。
するとチームメイトはベンチを見つめた。視線の先は監督ではなく、ベンチに座った背番号10。
程なく観客からも「ヤビ・セ・ピクシー!」(ピクシーよ出でよ!)とコールが起こる。
起用を頑なに拒んだボシコフはいともあっさりと折れ、前半終了前にスタンコビッチと交代でストイコビッチを投入。
しかし戦況は変わらず、後半12分にして0-3。更にミハイロビッチが退場。誰の目にもユーゴスラビアの敗戦は濃厚だった。
だが途中出場ながら徐々にゲームのイマジネーションを広げていった妖精が、試合の流れを一気に変える。
後半20分、ストイコビッチのCKから1点を返す。その2分後に再びストイコビッチのロングパスが起点となり2-3。
更に勢いに乗り26分に同点。ユーゴスラビアでは「奇跡の6分間」と語られる壮絶な試合を見せた。
その中心にいたのは紛れもなくストイコビッチだった。

試合終了後は監督さながらにチームに檄を飛ばし、チームが一体となることを訴えかけた。
2戦目のノルウェー戦ではスタメンに起用されたストイコビッチは攻守に抜群の存在感を示し1ー0で勝利。自身はマンオブザマッチを獲得。
3戦目はスペインに敗れ、決勝トーナメントはW杯同様オランダに引導を渡され、ストイコビッチの代表でのキャリアは幕を閉じた。
しかしイタリアやスペインで活躍する選手の多いユーゴスラビアにおいて、36歳のJリーガーがここまでの存在感を示すとは誰も思わなかっただろう。
それは「マラドーナの後継者」と謡われるも、怪我や戦火、差別によって欧州でのキャリアを妨げられたストイコビッチの、最後の意地だったようにも見えた。

その様々な要因と戦いながら、「愛する名古屋にリーグタイトルを」という思いでJリーグを戦ってきたストイコビッチ。
クラブ初タイトルとして天皇杯を獲得するも、遂にJリーグチャンピオンには手が届かなかった。
2001年7月21日、Jリーグで現役を引退し帰国。
帰国後も日本へ変わらぬ愛情を示し、サッカー協会の昼食では納豆を振る舞い、他の役員を辟易とさせたという…


ストイコビッチのキャリアを振り返ると、不幸とはこうも続くことかと思ってしまう。
90年イタリアW杯予選でフランス相手にゴールをした時にはプラティニに、本戦ではマラドーナに、マルセイユ移籍時にはベッケンバウアーに、そしてペレをして世界最高と認められたその才能は、遂に世界のトップに輝くことはなかった
ある記者はストイコビッチにこう聞いた。もし君の生誕が前後どちらでもいい、10年違っていればと思ったことはないか?と。
そうすれば恐らくストイコビッチという選手は世界的な名手としてその名を歴史に刻んでいたのだろう。
しかし、彼はそんな問いに即答する。
「No.This is LIFE」これが私の人生なんだ、自分の人生に降りかかった受難のメッセージを受け止めることが大事なんだ、と。

彼はどんな苦難にあっても、自分の才能を理解し、フットボーラーであることを辞めなかった。
自身のプレーが出来なくなったマルセイユ時代の故障時に、保険金を貰って引退してしまっても決して不思議ではないだろう。
しかし彼は自分の能力に自信と誇りを持ち、カネよりもキャリアを続けたいというサッカー選手の本能に従っている。
もし欧州にセルビア人への偏見がなければ、NATOの空爆が無ければ、ストイコビッチのキャリアはどのようになっていただろう。
しかし彼は身に覚えのない罵声に晒されるより、自分のプレーを純粋に賞賛してくれる国でプレーを続けることを選んだ。
世界を獲れる才能を要したストイコビッチにとってそれは才能の浪費だったかもしれない。
だがストイコビッチは故郷がNATOの空爆を受けている時「今の状況下で、グランパスは私の生活で唯一の希望である」とコメントしている。
ストイコビッチにとって最も重要だったのは、サッカー以外のことに左右されない普通の選手としてキャリアを刻むことだったのだろう。

戦争に苦しむ母国の人々に勇気を与えること、サッカーの楽しさを思い出させてくれたJリーグで輝きを放つこと、それが神の子とも王とも異なる、妖精のキャリアだった。
その華麗なプレーが、戦火に嘆く母国の人々にとって、どれほどの希望の光となったことか。
そしてその光を母国の次に日本で披露してくれたことが、我々にとってどれほど幸運だったことか。
Jリーグが彼に思い出させたものに対し、彼はJリーグにそれ以上のプレーで応えた。日本人に、サッカーとは美しく楽しいものだというサインを、最も身近から発信してくれた。


ドラカン・ストイコビッチ。彼はユーゴスラビアの英雄にして、Jリーグの誇りだ。
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。